東京2020パラリンピック競技大会に向けて、皆さんの関心が注がれている時期だと思います。選手はもちろん、日頃から活動されている指導者の皆様はどんな想いで2020年を楽しみにされているでしょうか?
先日の大分国際車いすマラソン大会は、37回の歴史の中で初めて「中止」となりました。台風の影響で当日ギリギリまで判断に悩んだ運営チームの皆様、選手の皆様、ボランティアスタッフの皆様、辛い決断ではありましたが、これも大会には付き物、来年より盛大に皆様が活躍できることを願っています。
さてここで、その「大分国際車いすマラソン大会」が表題にある「東京2020パラリンピック」と何の関係があるのか?もう一度おさらいしてみましょう。
1964年11月、東京パラリンピックが行われました。そもそもパラリンピックは1948年にイギリス・ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院で行われたアーチェリー大会が起源と言われています。この時参加者は車いすユーザー16名。当時の車いすユーザーは戦争で負傷した方が多くいたそうです。そして1960年に日本の障がい者スポーツの生みの親「中村 裕(なかむら ゆたか)先生」が、この病院に留学し、障がい者がスポーツを楽しみ・競い合い、社会復帰していくスタイルを目の当たりにし、衝撃を受けます。
中村裕先生が1960年に留学する前にも世界各地のドクターが、同病院の視察に訪れますが1948年から12年間、これといった広がりが見えなかったそうです。
同病院のルードウィッヒ・グッドマン博士は、中村裕先生のこともどこまで日本でフィードバックできるか未知数で、言わば「やれるものならやってみな」状態だったのでしょうか。
しかし、中村裕先生は日本で「やってしまう」のです。
留学から帰国1年で、1961年10月 第1回大分県身体障害者体育大会を開催。その勢いを行政にぶつけて行きますが、当時の日本は障がい者が表舞台に出ることはなく関係者の反応に手ごたえがなかったそうです。1962年、自費で日本選手を第11回ストーク・マンデビル大会に出場させます。これがきっかけで、1963年に翌年の東京パラリンピックが正式開催決定されることとなりました。
そして、1964年11月、23ヵ国428名が東京パラリンピックに出場し、中村裕先生は日本選手団の団長として参加しました。金1銀5銅4
世界から集まった選手は、とても明るく競技後は観光など行動的だったそうです。この大会に日本選手は53名が参加していましたが就職していた選手は数名だけで、他の選手は自宅介護や施設療養だったそうです。ここで中村裕先生がさらに動きます。
「慈善より自立」
スポーツをすることにより体力もそうですが、社会性の向上にも大きく変化が期待できることは、指導員の皆さんは体験済みと思います。1965年「太陽の家」を日本の大企業と一緒に創設し、障がい者の雇用を定着させていきます。企業が動けば行政も動き出します。というか動かします。大分県に対して「福祉の街づくり計画」を提唱し、現在の別府市亀川の街づくりの基礎となりました。
留学からわずか5年で、大きく障がい者スポーツの環境の基礎を整備してしまった中村裕先生。もちろん携わった方々の苦笑いもあるでしょうが、人を動かすチカラの原動力・魅力は、留学中の出会った障がい者の生き生きとした姿だったのではないでしょうか。
そして10年後、1975年にはアジアに向けて「第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」を開催しました。この大会はのちに「フェスピック→アジアパラ競技大会」へと変化していきました。
そして、1981年「第1回大分国際車いすマラソン大会」を開催します。地元に国際大会を作り上げてしまうことの意味は、いわば先生の集大成だったのではないでしょうか。
1人の情熱で生まれた障がい者スポーツの基礎が、今の日本の環境に大きな影響を残しています。そして2020年に東京にパラリンピックが戻ってきます。東京パラを成功することは今後の障がい者スポーツの更なる発展の基礎固めと感じます。
スポーツ庁長官も「パラリンピックの成功無くして東京2020の成功はない」と仰ってくださいました。東京2020委員会も「大分県」はパラリンピック成功のキーワードとして取り上げてくださっております。
東京2020パラリンピック競技大会成功へのヒント(前編)「日本のパラリンピック発展に人生を捧げた男たち」
中村裕氏の息子「中村太郎」氏が父の功績や東京2020への期待を語ってくださっております。
東京2020パラリンピック競技大会成功へのヒント(後編)「大分市民と障がい者スポーツ」
大分国際車いすマラソン大会から見る障がい者スポーツの発展について、当協会の今吉さんも語ってくださっております。
<東京2020ニュースに掲載>
ぜひ皆さんお読みください。